第4話「ボニーの哀愁~赤いコップに託した想い~」
HOPPYの夕暮れは、少し肌寒い。ジムの隅で、ボニーは黙々とレッグプレスに向かっていた。誰とも言葉を交わさず、必要な重さをただ、静かに積んでいく。
汗をぬぐおうと手を伸ばしたペットボトルが、床に転がり「カラン」と乾いた音を立てた。
——あの音だった。
記憶の底に沈めていたあの日の情景が、唐突に蘇る。
ボニーが離婚したのは、二年前。まだ娘のベニーが三歳半だった頃だ。元妻のチッチとは、最初からうまくいかなかったわけではない。ただ、仕事にかこつけて家のことをすべて任せきりにしていた。帰宅は深夜、食卓も風呂も寝るタイミングも別々。休日も「疲れてる」と言っては寝てばかり。だらしない体に、だらしない生活。そのすべてが、チッチの心を少しずつ遠ざけた。
それでも、ボニーは家庭を失うとは思っていなかった。チッチは最後まで穏やかだった。ただ、ある夜、食後にビールを飲んでいたときに「話がある」と言われ、淡々と離婚の意思を告げられた。驚くほど静かな声だった。
そして、次の日の朝の最後の光景。
食卓の上に、赤い小さなコップが三つ並んでいた。
ベニーが、「パパのぶん」と言って置いたものだ。言葉がまだ拙くて、何を言っているのかよくわからなかったけれど、指差す先にあったそのコップは、小さくて、真っ赤で……。
離婚の日、ボニーは黙って家を出た。もう一度戻れば何か変わるかもしれないと思いながら、それができる自信もなかった。
あとでチッチから郵送で荷物が届いたとき、その中にあの赤いコップだけが入っていた。割れぬように、丁寧に包まれて。
(これは……“終わり”の合図だったんだ)
以来、ボニーはこのジムに通い続けている。
体型を変えることで、何かがやり直せるような気がしていた。腹の肉を落とし、鏡の中の自分を見つめるたび、「こんな自分だったら」と思った。もし、あの頃この生活をしていたら……いや、もしも、なんて意味はない。
更衣室で、タオルを握ったまましばらく動けなかった。
岡田氏が以前ぽつりと口にした言葉が、脳裏に浮かんだ。
「自分を許す。それが、次に進む一歩になる」
ボニーは天井を仰いで、そっと目を閉じた。
「……どこまで行ったら、俺は俺を許せるんだろうな」
「チッチは……許してくれるんだろうか」
「……許してほしいって思ってる時点で、俺はずるいのかもしれないな」
小さくつぶやく声が、タイルの壁に吸い込まれていく。
涙は出ない。ただ、胸の奥が鈍く痛む。
そしてボニーは、誰もいないジムのフロアに戻った。
バーベルの前に立ち、深く息を吸う。
「せめて……あの子がまた、笑ってくれるように」
ゆっくりとシャフトを握り直す。
まだ自分を許すことはできない。でも、今日もこうして握る。
それが今の自分にできる、唯一の“けじめ”だから。
つづく
第5話「HOPPY誕生秘話と明日への予感~」