第3話「ボニーの苦悩~思い出と向き合う胸の奥~」
朝一番のジムには、誰もいなかった。
静けさの中、ボニーはラックの前でウォームアップを始めようとしていた。
そのとき、ふと視界の端に映った――赤いシャツ。
仲間の誰かがかけていたジャージの上着。
何でもない色なのに、ボニーの胸の奥に、じくりと古い熱がにじんだ。
(……赤い、小さなコップ)
頭の中に浮かんだのは、3つのおそろいの赤いコップ。
自分と、チッチと、ベニー。
3つとも赤色なのにどのように見分けているのか、いつもベニーが「パパのぶん」と言って一つ持ってきてくれていた。
――あの日の朝も、そうだった。
「ボニーくん、申し訳ない!今日、子どもが転んで救急外来行くことになって……」
出勤前に鳴った一本の電話。同僚からのお願い。
その日は娘のベニーの保育園の運動会だった。
チッチとベニーは、もうお弁当を詰めて、玄関で準備をしていた。
ボニーは、電話を切ったあと、こう言った。
「ごめん、今日……仕事行くことになった。同僚の代わりに」
一瞬、空気が止まった気がした。
「……うん。わかった」
チッチはそう答えた。
怒っていないように見えた。
でも、ボニーは気づいていなかった。“わかってくれた”のではなく、“あきらめた”のだということに。
チッチは思っていた。
(仕事に行くことが悪いんじゃない。運動会を欠席することが許せないわけじゃない。
ただ――一言だけ、聞いてほしかった。「どう思う?」って)
チッチは、「ダメ」なんて言わないつもりだった。
でも、もう何度目だっただろう。いつもボニーは、家族の了承を取らずに物事を決めていく。
悪気がないのも、わかっている。
けれどその“悪気のなさ”が、チッチの心を削っていった。
その夜。
ボニーは遅く帰宅し、着替えもそこそこにリビングに腰を下ろした。
携帯に目を落とし、明日の仕事のシフト確認。
ベニーは、小さな手でそっと赤いコップにお茶を注ぎ、ボニーの前に差し出した。
「パパのぶん!」
ボニーは、顔を上げないまま、がぶりと飲んだ。
「……ん」
ありがとうも、目も合わさず。
ただ疲れていただけ。
だが、その“ただ”が、チッチにはもう限界だった。
その瞬間、チッチは思った。
(ああ、もう……無理かもしれない)
現実のジムの空気に戻ったボニーは、深くしゃがみ込んだまま、動けなくなっていた。
呼吸が浅くなる。思い出に胸がぎゅっと痛む。
「……っ」
タオルで顔を覆い、声にならない息を押し殺す。
もう終わったことだ。
だけど心は、まだあの日のまま立ち尽くしている。
そのとき、背中にふわりと手が触れた。
「無理はしなくていい。少しずつでいいんだよ」
岡田氏の声だった。
ボニーはタオル越しに、ほんの少しうなずいた。
岡田氏は続けなかった。
ただ静かに、ボニーの隣に腰を下ろし、同じ時間を共有してくれた。
(明日もまた、工場で機械の音に包まれて、汗をかいて、誰にも気づかれずに終わっていくのかもしれない)
でも――
この時間だけは、自分を保つための場所かもしれない。
ボニーはゆっくりとタオルを外し、空を見上げた。
ジムの天井に、朝の光が差し込んでいた。
その光の中で、赤いコップの記憶が、少しだけやわらかくなっていくような気がした。
つづく
第二章
第4話「指導者の覚悟~諦めさせないということ~」