第四章 離れていても、まだ続いている
第1話「空っぽのマット~欠けた輪~」
――ルル不在のHOPPYに、静かな異変が広がる――
朝のHOPPY。
スクワットラックの前に、一枚のマットが敷かれていた。
誰のものでもない。ルルがいつも使っていた場所に、今日はぽつんと、誰にも使われず残っていた。
「……今日も、来ないのか」
モッティがぽつりと呟いた。
その声に反応するように、ベンチ台でストレッチしていたボニーが顔を上げる。
「毎日毎日、ポストにあのチラシばっか入ってくるんだよ……うんざりする」
少し荒い口調。
普段のボニーにしては珍しく、明らかに苛立ちを帯びていた。
モッティは目を丸くする。
「ね、それってルルと関係ある?」
「いや……わかってるよ。でも、ああいうの見ると、なんかムカつくんだよ。あいつを引っ張ってったあのジムの名前が、毎日目に飛び込んでくるんだぞ?」
「……それ、完全に八つ当たりじゃん」
モッティが素でツッコミを入れた。
「うるせーよ……でもさ、何もなかったみたいな顔してこのままやってけるかよ」
言葉とは裏腹に、ボニーの声は少しだけ揺れていた。
モッティは少し間を置いてから、ぽつりと返した。
「わかるよ。なんか、落ち着かないよね。
いないだけなのに、なんか……ジムが別の場所みたいだ」
ボニーは黙ってうなずいた。
***
岡田氏の一日
その会話を遠巻きに聞きながら、岡田氏はラックの横でフォーム指導をしていた。
「腰、あと少し下。バーは背中で支えて――そう、それで安定する」
会員の動きを支え、器具の安全チェックをこなし、バーベルの調整も一つひとつ丁寧に進める。
変わらない日常。でも、変わってしまった空気。
休憩中、岡田氏はふと壁に目をやった。
そこにある、ルルとの写真――スクワット大会で撮った一枚。
あのときのルルは、口数少ないながらも、確かに笑っていた。
「……アイアンヘルに行ったのは、自分の指導の未熟さもある」
誰にも聞こえない声で、ぽつりと漏れる。
「でも……あの子が、あそこで挫けなければいいが」
静かに目を閉じた。
その呼吸は、深く、重たかった。
ジムの隅で
静かな時間。
フクロカはカウンター裏の椅子に腰を下ろし、記録ノートをめくっていた。
「……活気がないわね。
あの子がいると、やっぱり“華”があったわ」
ページには「ルル」の名が残っている。
進捗欄は空白のまま。ペンの先だけが、その欄の上でじっと止まっていた。
ジムには今日も音楽が流れている。
器具の音、息づかい、励ましの声。
でも――何かが“欠けている”ことに、誰もが気づいていた。
つづく
第四章
第2話「IRON HELLの苛烈~華やかさの裏側~」