第五章(最終章)絆と秘密の先にあるもの
第1話「ボニーの解放~赤いコップが紡ぐ絆~」
朝日が、薄いカーテン越しに差し込んでいた。
ボニーはテーブルに置いた赤い小さなコップを見つめながら、目を細める。
思い出したくて思い出すのではない。
静かな朝は、どうしてもあの日の記憶を引きずり出してくる。
「パパが見に来てくれるって、せんせいに言ったの!」
小さな手でコップを持ち、嬉しそうに笑っていたベニー。
運動会の前日、あの笑顔が、何よりも鮮やかに残っている。
あのとき、断れなかった仕事。
どうしても外せないって、自分に言い聞かせていたけれど、本当は――逃げたのかもしれない。話し合いから……そして今回も……
「……あのとき………」
呟いた声は、部屋の中に静かに吸い込まれていった。
* * *
それは数日前のことだった。
ルート配達の仕事で街を回っていたボニーは、偶然、保育園の前を通った。
昼下がり、門の前で小さな子どもたちが並び、ひとり、見覚えのある姿がいた。
少し背が伸びたような気がした。でも、すぐにわかった。
ベニーだった。
そのすぐ後ろに、彼女――チッチが現れる。
母としての顔をして、ベニーに手を伸ばす姿に、ボニーの足が止まりかけた。
声をかけようとした。けれど、足が一歩も動かなかった。
代わりに、ゆっくりとトラックのアクセルを踏み、走り去った。
バックミラーで、何度も振り返ってみていた。
* * *
その夜、HOPPYではデッドリフトの日だった。
器具の準備をしていたボニーの背後から、岡田氏の声がした。
「無理せず、少しずつでいいんだよ。重さは、自分で決めていい」
ボニーはしばらく沈黙していたが、ふと、タオルの中から小さな赤いコップを取り出した。
持ち歩いていたのは、単なる癖じゃない。
心のどこかで、これを見て自分を叱咤していたのかもしれない。
「……俺、娘にもう一度、ちゃんとした背中を見せたいんです」
「もう一度、自信を持てるように。ここで、鍛え直したい」
岡田氏は、ゆっくりとうなずいた。
何も聞かない。
彼はいつもそうだ。話さないのは、まだ心の中で消化できていないということ。
だから、岡田氏は深く立ち入らない。けれど、背中を押すことは決して忘れない。
「それなら、大丈夫だ。HOPPYは、そういう場所だから」
* * *
ジムの奥、カウンターの裏で記録ノートを閉じる音がした。
フクロカが、静かにページの端にこう書き残す。
――ボニーは、自分を許し、未来を抱きしめた。
その瞬間、ジムのドアがわずかに開き、夜の風が入り込む。
ベンチに置かれた赤い小さなコップが、ほんの少し揺れた。
それは、微かな風だったけれど。
ボニーの中に、確かな何かが動き始めていた。
* * *
数日後の午後。
ボニーは、保育園の門の向こうに広がる景色を、少し離れた場所から見つめていた。
今日はチッチの誕生日。
ふたりが帰るところを、ボニーは静かに待っていた。
(ベニーは、俺のこと覚えてるだろうか)
(チッチは……何て言うだろう。無視されるかもしれない)
不安が腹の底でじわじわと膨らむ。でも、それでも逃げたくなかった。
もう一度――きちんと向き合いたかった。過去ではなく、いまの自分で。
帰り道、偶然見つけた小さなケーキ屋。
ショーケースの中、丸くて色とりどりのフルーツがのったホールケーキが目に入った。
(あのとき……こんなふうに、二人のことだけを考えて何かを用意したことがあっただろうか)
今の自分の頭の中には、それしかなかった。
何を持っていけば、何をすれば、あの二人が少しでも笑ってくれるか――
保育園の門が開いた。
チッチがベニーの手を引いて出てくる。
その瞬間、ボニーは思わず足を踏み出した。
「チッチ。……誕生日、おめでとう」
チッチが驚いた顔で立ち止まった。
そして、見た。手に持ったケーキと、その向こうの――まっすぐこちらを見つめるボニーの目を。
「びっくりした……」
そう呟いた声には、ほんの少しだけ、笑いが混じっていた。
ボニーはチッチにケーキを渡した。
「渡せてよかった」とでも言うように、力が抜けた顔だった。
でも――彼の視線は、終始ベニーに向けられていた。
話しかけることはできなかった。ただ、目で追っていた。
その様子に気づいたチッチの胸に、じんと何かが沁みた。
(……こんなにベニーのことを見てる…)
そして、ボニーは声をかけた。
「……また、会いに来てもいいか?」
チッチは少し迷いながらも、静かにうなずいた。
三人の間に風が通る。春先のやわらかい風。
少しだけ時間が、ほんの少しだけ巻き戻ったような感覚。
そして、別れたあと。
小さな手を握って歩きながら、ベニーがぽつりと口を開いた。
「……パパ?」
チッチは足を止めて、その顔を見た。
ベニーの瞳の奥に、かすかな記憶の光がゆれていた。
つづく
最終章
第2話「モッティの覚悟~兄妹の約束を超えて~」